憎しみという名の毒
最近の日本はとにかく息苦しい。
いや、日本が息苦しいのは今に始まったことではないんだけれど、より一層息苦しくなったように感じる。
息苦しいのは、酸素が少ないからだ。
世の中に溢れている情報の波に飲み込まれていくうちに、気がついたら酸素が吸えなくなっている。
そんな人が多い気がする。
COVID-19は、人間にさまざまなことを教えたようだ。
地球上の本当のウイルスは人間だったのか。
本当に大切なことは何なのか。
人間にとって、自分の命と他人の命を天秤にかけるような真似をさせているつもりは向こう側にもないのだろうが、ただ自分が持っている魂の器について考える時間が増えたのは間違いないだろう。
人間は、人間など自然の前では無力だと何度も思い知らされてきた。
ウイルスとて自然だ。
人工的に培養され世に放たれたとしても、人間を蝕み殺すことはウイルスにとって自然な活動だ。
そしてまた人間も、憎しみという毒で同じ人間を蝕み殺しているのが昨今やたらと目に余る。
ただ。
憎しみが生まれるのは仕方のないことだ。
問題は、その憎しみとどう付き合うかだろう。
憎しみの分だけ、親しみを持つ。
苦しみの分だけ、楽しみを持つ。
どちらかに天秤が傾いていたら、それ自体が人間にとっては足枷となる。
だからこそ、その足枷は放り投げてあげなければならない。
放り投げてあげるのは自分しかいない。
社会的な活動の根本すらも、人間はこのウイルスに教わったのではないだろうか。
そういう意味では、この地球をどこかで支えている人間という種族にとってはいい機会なのかもしれない。
社会、人々、その全ての過去を問うているのだ。
一体どのように生きてきたのか、どのように考えてきたのか、そしてどのように生きていくのか。
そして「アフターコロナ」と呼ばれる社会の中で、日本人は、人間は、どうやってこの地球を支え、守り、戦っていくのだろうか。
多大なる、犠牲の上に。